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高崎ちかごろニュース「高崎光のページェント2022」2022.10.30

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  昨日、10/29(土)16:50~OPA前のぺリストリアンデッキにてカウントダウンで点灯された、「高崎光のページェント2022」が来年2/28(火)まで、17:00~22:00(金、土日は24:00)高崎駅西口のぺリストリアンデッキ、シンフォニーロード、東二条通り、慈光通り、大手前通り、高崎城址公園のお堀を会場にて始まりました。ハロウィン🎃🎃である本日は仮装をした若者が街中にちらほら、どうも、今年はイカゲ??の衣装が流行りで、イルミネーションをバックに写真を撮る姿が見られました。 6mのフラワーツリー 色が刻一刻と変わっていきます。 市内の幼稚園、保育園、認定こども園の園児たちの「光のキャンパス」にはいつもほのぼのさせられます。イルミネーションは始まったばかり、折に触れて、ほかの会場も見に行きたいと思います。

高崎ちかごろニュース「いざ出陣 武田軍を迎え撃て!!第20回 箕輪城まつり」2022.10.30

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1512年 長野業尚によって築城された日本百名城(16番)の箕輪城。長野業正(長野業政)の時代には、新陰流の創始者となる上泉信綱を配下にもち、弘治3年(1557年)の武田軍の西上野侵攻に対して箕輪衆2万を集結させこれを防いだとされる。このとき武田信玄にして、「業正がいる限り、上野は攻め取れぬ」と言わしめるほどで、この合戦を創作で再現したのがこの箕輪城まつりの攻防戦の再現となる。 午前9時半に箕輪支所にて出陣式が行われ、10時から武者行列。11時20分ごろには、2016年11月に復元された郭馬出西虎口門(櫓門)から行列は入城。 二の丸跡で集結したのち、本丸に進軍。 12時頃、アトラクションが開始。 獅子舞の奉納 業政の跡を継いだ 業盛は若干19歳、ここぞとばかりに武田信玄は3万5千もの大軍を箕輪城に差し向け、これに対し1千5百の精鋭で抗戦したものの、最後は厩橋城からの援軍も尽きて、 永禄9年(1566)落城となり、この時、業盛は御前曲輪の持仏堂で最後を迎えます。武田の城となりましたが、長篠の合戦以降、武田は没落し、織田の配下であった滝川一益がこの地を治めるも、3か月もたたないうちに本能寺の変が勃発。北条の侵攻を受け、神流川の戦いで負けたのち、北条の支配となりました。このとき勝った、北条氏邦がこの地を治めることになったのですが、この時、埼玉県寄居町の鉢形城も領有していたというご縁で、この箕輪城まつりにも峰岸町長が来場されており、また、鉢形城の「北条種子島砲術隊」の方々の演舞も披露されました。 13時からの開会式には、先週も国分寺でお目にかかった富岡賢治高崎市長が来場。 14時からは攻防戦が開始、講談師のテンポのいい語りとともに、上泉信綱の一騎打ちや合戦の様子が壮大な歴史絵巻として再現されました。

高崎ちかごろニュース「第11回 上野 国分寺まつり」2022.10.23

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 国分寺はおよそ1250年前、奈良時代、天平13年(714年)聖武天皇が仏教の力で国を治めようと、60あった地域それぞれに僧寺と、尼寺を豪族の力を借りて作らせました。上野国分寺はこの地域の中心となる国府の地に旧碓氷軍と旧勢多郡の豪族の協力により750年頃、東西220メートル、南北235メートル、周囲は築垣(土塀)で囲まれており、中央には釈迦像を祀る金堂と、60.5メートルにもなる七重塔がありました。この時代の宮廷衣装をまとった、総勢114名の4グループに分かれた行列が、国分の寺橋→天平の道→七重の塔の基壇→イベント広場→南大門跡と練り歩きました。 築垣の前では、行列に先駆けて触れ太鼓「群馬町和太鼓会」の演奏が行われていました。 富岡賢治市長も奈良の都から上野国に派遣された藤原不比等という役柄で行列に参加していました。藤原不比等は中臣鎌足の次男で、法律学者として大宝律令の策定にかかわり、持統天皇の御代には、権謀術数を駆使する政治家として活躍した人物だったそうです。 長柄の団扇(うちは)は 翳(さしば)と呼ばれるもので、従者が貴人の顔を隠すために用いたものだそうです。

高崎ちかごろニュース「第12回 かみつけの里 古墳祭り」2022.10.16

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3年ぶりに かみつけの里で古墳祭りが開催されました。1500年前、この地を納めた王の儀式の再現として、埴輪から得られた風俗の情報をもとに、手作りの衣装や小道具で彩る劇は、舞台となる古墳や、その後ろにたなびく榛名山の雄大さも相まって、タイムスリップしたかのような不思議な感覚にいざなってくれました。  学芸員さんのお話し 王の儀式

高崎ちかごろニュース「高崎マーチングフェスティバル」2022.10.16

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 「音楽のある街、高崎」を象徴する、市民参加型のイベントで、高崎音楽祭とも相まって10月の土日に開催されます。今年は3年ぶり、昨日はキッズドリルがあり、今日は10:00~シティーギャラリー前を出発して、南小学校までシンフォニーロードを25団体がパレードしました。小学生から高校生、社会人と幅広く、マーチングを楽しんでいる面々の晴れ姿は見ていて、感動ですね。11:00からは、高崎アリーナで16団体のフリーパフォーマンスとなっています。

高崎ちかごろニュース「高崎美スタイルマラソン 3年ぶりのSTART」2022.10.10

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天気は曇りで、暑くもなく、寒くもないため、マラソンのコンデションとしては良好の中、3年ぶりとなった第11回「高崎美スタイルマラソン」の10Kmコース参加者が8:30にもてなし広場前をSTARTしていきました。この美スタイルマラソンは子宮頸がんの予防(検診)啓発として、NPO法人ラサーナが主体となって開催。大会カラーはオレンジとなっています。観音山ファミリーパークで10年ほど前はやっていることは知っていましたが、市街地を走るようになっているとは知りませんでした。 先だって、高崎市長から健闘してほしいけど、無理はしないでのあいさつがあり、とても会場はなごんでいました。 STRAT10分前の緊張の時間。みなさん、それぞれが体をほぐしていました。今回は、群馬住みます芸人のアンカンミンカンの富所 哲平さんもゲストランナーで参加とのことでしたが、この集団だったため、お見掛けするところまでは難しかったです。 コースは、もてなし広場→あら町の交差点→本町三丁目交差点→本町一丁目交差点→もてなし広場への1周2.5Kmの周回コースで、エントリは10Km、5Km、2.5Kmの3つのグループとなっていて、全員が9:50までにはゴールという流れでした。  

高崎ちかごろニュース「轟くこと雷鳴の如く、激しきこと稲妻の如し」2022.10.9

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  コロナで4年ぶりとなった屋外ステージ! このうっぷんを晴らすかのような熱の入ったパフォーマンスが高崎のもてなし広場と、駅前通りで繰り広げられました。加えて駅前通りでは、「キングオブラーメン」が5店舗参加で開催されていました。(ネーミングに関しては「キングオブパスタ」の実行委員会から承諾を得てのことだそうです。) 雷舞とは群馬の風物詩「雷」のように激しいダンスとして、八木節などの民謡をもとに「日本一のだるまの里・高崎」を表現した、だるま型の鳴子ならぬダル子を使うパフォーマンスになっています。今回は第十九回目として、市内外から22チームが参加しました。 また、メイン会場となったもてなし広場の総合司会としてFM群馬のパーソナリティで有名な内藤 聡さんがつとめて、テンポのいいとりまわしのおかげで会場は盛り上がりました。 雷舞の見所は当然、前面の踊り手ですが、大きな旗が後ろで翻る様子にも、心躍るものがあります。今回は、この旗士にスポットが当てられ、知らされていない音楽に合わせて、旗のパフォーマンスを無茶ぶりするコーナーがあったりととても面白いものが見られました。 いや~笑顔でこんなに激しい踊りを踊れるって、もう恰好良すぎ!!・・・・スポーツジムで、ヒップホップを踊ってみましたが、足がもつれて、ボックスステップすら踏めない自分には次元が違いすぎて羨望のまなざししかありません。 小さな子も入ったチームもあり、応援にお父さん、お母さんが応援に来ていました。 頼政神社にちなんだ太鼓のパフォーマンスで40年以上も続いているとのこと、確か、9月の高崎祭りの時も、出演されていたと思います。 創作エイサーのチームもとてもかっこよかったです。獅子の頭は発泡スチロールを使って夜なべで手作りしたのだそうです。よくできていると思います。

2022年10月8日 晴れ 保渡田古墳群とその周辺を巡る(会員研修)

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 本日は、10月22日(土)に予定されている「保土田古墳群とその周辺を巡る」と銘打った市民公募ツアーの会員研修でした。開始当初は曇りで、肌寒かったのですが、ここから天気予報どおり、気温が20℃近くまであがって、青空が広がりました。ツアー当日も同じように晴れて、古墳周辺のコスモスが見ごろになっているとグッ👍👍👍トですね。 【八幡塚(はちまんづか)古墳】こう見ると、中国の万里の長城かと見まがうばかりの巨大な前方後円墳。1500年前(5世紀後半)にはあったとされ、保土田古墳群の中では2番目に古く、墳丘全長は96m、墓域としては190mにもなります。ここでは昭和と平成(1996年から4年間)の大きな発掘、保存作業により円筒埴輪だけで推定で6000基以上、内堤には動物や、人物の埴輪で構成された「埴輪群像」が発見され、イノシシ狩りや鵜飼といった様子がうかがい知れるものもありました。1998年には「はにわの里公園」として整備され、そして、現在、10年の歳月をかけて市民の手で作られた円筒埴輪が並べられ、まさに、古代にタイムスリップしたような景色を作っています。 後円部の高さは8メートルにもなり、その中には階段で降りると、舟形石棺が展示されています。当時の風習では、石棺は東西に置かれ遺骸の頭は東に向けられて葬られたそうです。また、石棺は凝灰岩でできており、観音山丘陵から採掘されたもので、よく、ここまで運んでこれたものだと感心しました。 【かみつけの里博物館】「よみがえる5世紀の世界」と銘打つ博物館として、隣接する、保渡田八幡塚古墳、井出二子山古墳、薬師塚古墳から出土した副葬品や埴輪が展示されています。 どうして、ここまで、大きな古墳や遺跡が残っているのか、それは榛名山の南東山麓であるこの地域には有力な豪族(首長)がいて、そこに来た渡来人により、水田の造営や、古墳の築造といった高度な技術がもたらされ、発展したということ、また、このころに起こった榛名山、浅間山の噴火による火山灰の堆積が、水田や、集落、古墳の保存に役に立ったことによると考えられます。 八幡塚古墳の築造風景。石を積む様子や、舟形石棺の運搬の様子が再現、解説されています。1.古墳を作る場所を決める、2.古墳の形を設計する、3.堀を掘り、土を盛る、4.形を整え、石を葺く、5.石棺を運び入れ、王を葬る、6.埴輪を並べる。とい