高崎ちかごろニュース「いざ出陣 武田軍を迎え撃て!!第20回 箕輪城まつり」2022.10.30
1512年 長野業尚によって築城された日本百名城(16番)の箕輪城。長野業正(長野業政)の時代には、新陰流の創始者となる上泉信綱を配下にもち、弘治3年(1557年)の武田軍の西上野侵攻に対して箕輪衆2万を集結させこれを防いだとされる。このとき武田信玄にして、「業正がいる限り、上野は攻め取れぬ」と言わしめるほどで、この合戦を創作で再現したのがこの箕輪城まつりの攻防戦の再現となる。
午前9時半に箕輪支所にて出陣式が行われ、10時から武者行列。11時20分ごろには、2016年11月に復元された郭馬出西虎口門(櫓門)から行列は入城。
二の丸跡で集結したのち、本丸に進軍。獅子舞の奉納
業政の跡を継いだ業盛は若干19歳、ここぞとばかりに武田信玄は3万5千もの大軍を箕輪城に差し向け、これに対し1千5百の精鋭で抗戦したものの、最後は厩橋城からの援軍も尽きて、永禄9年(1566)落城となり、この時、業盛は御前曲輪の持仏堂で最後を迎えます。武田の城となりましたが、長篠の合戦以降、武田は没落し、織田の配下であった滝川一益がこの地を治めるも、3か月もたたないうちに本能寺の変が勃発。北条の侵攻を受け、神流川の戦いで負けたのち、北条の支配となりました。このとき勝った、北条氏邦がこの地を治めることになったのですが、この時、埼玉県寄居町の鉢形城も領有していたというご縁で、この箕輪城まつりにも峰岸町長が来場されており、また、鉢形城の「北条種子島砲術隊」の方々の演舞も披露されました。
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