2022年10月8日 晴れ 保渡田古墳群とその周辺を巡る(会員研修)
本日は、10月22日(土)に予定されている「保土田古墳群とその周辺を巡る」と銘打った市民公募ツアーの会員研修でした。開始当初は曇りで、肌寒かったのですが、ここから天気予報どおり、気温が20℃近くまであがって、青空が広がりました。ツアー当日も同じように晴れて、古墳周辺のコスモスが見ごろになっているとグッ👍👍👍トですね。
【八幡塚(はちまんづか)古墳】こう見ると、中国の万里の長城かと見まがうばかりの巨大な前方後円墳。1500年前(5世紀後半)にはあったとされ、保土田古墳群の中では2番目に古く、墳丘全長は96m、墓域としては190mにもなります。ここでは昭和と平成(1996年から4年間)の大きな発掘、保存作業により円筒埴輪だけで推定で6000基以上、内堤には動物や、人物の埴輪で構成された「埴輪群像」が発見され、イノシシ狩りや鵜飼といった様子がうかがい知れるものもありました。1998年には「はにわの里公園」として整備され、そして、現在、10年の歳月をかけて市民の手で作られた円筒埴輪が並べられ、まさに、古代にタイムスリップしたような景色を作っています。
後円部の高さは8メートルにもなり、その中には階段で降りると、舟形石棺が展示されています。当時の風習では、石棺は東西に置かれ遺骸の頭は東に向けられて葬られたそうです。また、石棺は凝灰岩でできており、観音山丘陵から採掘されたもので、よく、ここまで運んでこれたものだと感心しました。
【かみつけの里博物館】「よみがえる5世紀の世界」と銘打つ博物館として、隣接する、保渡田八幡塚古墳、井出二子山古墳、薬師塚古墳から出土した副葬品や埴輪が展示されています。
どうして、ここまで、大きな古墳や遺跡が残っているのか、それは榛名山の南東山麓であるこの地域には有力な豪族(首長)がいて、そこに来た渡来人により、水田の造営や、古墳の築造といった高度な技術がもたらされ、発展したということ、また、このころに起こった榛名山、浅間山の噴火による火山灰の堆積が、水田や、集落、古墳の保存に役に立ったことによると考えられます。
【群馬県立土屋文明記念文学館】明治23年、土屋文明はこの保渡田の農家に生まれ、高崎中学校(現:高崎高校)を卒業後、短歌結社「アララギ」に参加。その後、東京帝国大学に進んで、芥川龍之介といった文学者とともに、小説、戯曲を書いていました。その後、長野県の諏訪と松本で教鞭をとり、昭和5年には斎藤茂吉から「アララギ」の発行人を引き継ぎました。また、「万葉集」の研究にも打ち込み、昭和61年には文化勲章を受章。平成2年100歳まで生き、群馬県名誉県民となりました。この文学館は歌人・土屋文明の作品や生涯を紹介した施設となっています。ちょうど今日から12月18日まで萩原朔太郎没後80年ということで、企画展が開催されていました。
記念館の庭の歌碑には、
「青き上に榛名を永久の幻に出でて帰らぬ我のみにあらじ」
と70歳のときに発表された歌が記されており、祖父が博打打ちで警察に捕まり、網走の刑務所で刑死したことを地元でも有名になったことから、大変な汚名と考えて二度と故郷には戻ってこれないことを詠んだ望郷の歌だそうです。文明は、歌碑建立の依頼があると「あんなものは、犬のしょうべんじょになるだけさ」と断ったそうですが、この歌碑は建てる許可が得られた数少ないものだそうです。
【薬師塚古墳 西光寺】浄土宗紫雲山東陽院 西光寺は、室町時代に創建され、当時は現在の場所ではなく、もっと西にあったそうです。ここにはもともと、保渡田古墳群の中でもっとも新しい(5世紀後半から6世紀初頭)薬師塚古墳があり、江戸時代には、この古墳から舟形石棺と薬師如来像が発見されました。当時の藩主はこれを祀るために古墳の上に薬師堂を建て、そこに西光寺が移ってきたようです。
舟形石棺が後円部に登ったところのお堂の前に展示されており、いつでも見ることができます。
墳丘の全長は105m、高さは6m。八幡塚古墳の96mより大きなものになります。
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