高崎ちかごろニュース「群馬音楽センター」2023.7.16

 


7/15(土)22:30~放送の「新美の巨人たち」ではあなたの街の名建築の第二弾として女優の内田有紀さんの案内で、群馬音楽センターが紹介されました。

https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_tvtokyo/program/detail/202307/14857_202307152230.html


誕生から62年の群馬音楽センター。これを設計したのは1919年(大正8年) 旧帝国ホテル設計監理のため、フランク・ロイド・ライトとともに来日したアントニン・レーモンドによって設計されています。

番組の中では、この群馬音楽センターのことを「巨大な白いザリガニのような奇妙な形をした建物」と表現されています。


ザリガニの甲羅のようなギザギザの部分は折板(せっぱん)構造と言われ、柱や梁をなくして巨大な劇場の空間を作るために必要な剛性や耐力といった構造性能を高めるための工夫です。このことにより、コスト面でのメリットも出てきますが、設計したアントニン・レーモンドから見ても、このコンクリート壁を作る建築業者がそうそういるとは思っていなかったようで、それをやり遂げたのが井上工業だったわけです。


昭和20年(1945年)11月、敗戦後、高崎市民オーケストラが、井上工業の社長だった井上房一郎を会長として誕生しました。昭和21年には「群馬フィルハーモニーオーケストラ(群響)」と改称。プロの交響楽団として本格的な活動を開始しましたが、経営は困難で、翌年には資金確保のため「移動音楽教室」を始めました。昭和27年、高崎出身の映画プロデューサー市川喜一がこの苦労と情熱の活動を映画化しようと企画「ここに泉あり」が製作されました。主演は岸恵子。製作会社は独立系で、「お弁当はおにぎり二個にたくあん二きれ」と制作費はわずかで、市民の積極的な協力により、昭和30年2月に封切られ、全国で300万人もの観客を動員するにいたり、昭和34年には「旅する楽団」として小学6年生の国語の教科書にも掲載され、「音楽のあるまち高崎」として高崎の象徴となっていきました。

そういった、盛り上がりの中で、昭和34年1月の市議会で、音楽センターの建築案が可決されます。群響の会長だった井上房一郎はその設計をレーモンドに依頼します。現在の市美術館の傍に保存されている房一郎の自宅は、西麻布にあった、レーモンドの自邸兼事務所に惚れ込んで、そのままを写して建てるほどでした。


当初の設計案では、群響の活動としての拠点としての機能を考えて、折板構造の円形劇場を想定していましたが、房一郎のリクエストが、日本の伝統芸能の公演にも利用可能な劇場とあったため、第2案として、ドーム型に、舞台設備を収納できるタワー部分を持つ劇場の設計につながりなす。しかし、レーモンド自身が、この高くそびえるタワー部分が高崎城址の背景とマッチしないと考え、現行のザリガニの形を考えることとなります。まさにこの舞台設備を収納するタワー部分がザリガニのハサミの部分となったのです。


昭和34年に着工し、昭和36年(1961年)予算2億5千900万円だったものが、最終的には3憶3千500万円までになるも、何とか竣工となりました。当時の高崎市の年間予算が8億円という時代にこの規模は大事業だったと思われます。当然、市財政だけでは苦しく、1億円の寄付金を募りました。そのうち、3千万円は市内一世帯あたり平均1200円を募金箱を配って集めたそうです。現在でいうと5千円といった金額で、単純計算で6000世帯が協力したといったイメージです。いかに、市民の協力があったかがうかがい知れます。7月18日、市制施行60周年、水道創設50周年と併せて、音楽センター落成式典が17日間にわたって盛大に行われました。群馬音楽センターの席数はこの竣工した年にちなんで、1960席+1つのステージとなっています。



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