高崎ぶらっと自転車旅「小栗の里 倉渕村」2022.8.12

 


軽井沢のアウトレットモール目指すのに自転車で行くことに、おまけに碓氷峠を往復するだけではつまらないと、高崎市の西北の果てを目指すべく、倉渕村経由で行くことに、総移動距離124Km。朝6:30分に出発、ぶらっとどころか、過酷な旅となりました。

倉渕村といえば、群馬西部、群馬郡の村でした。1996年(平成8年)7月1日までは倉淵村で、そこから、倉渕村となり、平成18年1月23日に箕郷町、群馬町、新町といっしょに高崎市に編入されました。姉妹都市、提携都市は横須賀市と浦安市で、横須賀製鉄所の創立に尽力した小栗上野介忠順の縁、浦安市は、浦安市民の森が貸与されたことによります。

まずは「道の駅 くらぶち小栗の里」に立ち寄りましたが、9時~の開店まで数十分あり、諦めて先を急ぐことにしました。

先に進むと、「観音山 小栗上野介屋敷跡」の立て札を発見。

江戸幕府の要職にあった小栗は権田村で隠棲するにあたり、ここに田畑を開き、3棟の住宅を作りはじめ、50余日で主屋一棟が棟上げの運びとなったものの、翌日には江戸の総攻撃のため薩長の東山道軍が高崎を通過するという事態が発生するなかで、捕らえられ、家来とともに斬首。結果、住宅の完成には至らなかったそうです。

少し登ると、「邸址歩道」の案内があり、ここで自転車をおりて、蜘蛛の巣をかき分けながら、先に進むと、なんと、道が草に埋もれており先に進めず、ヤマビルやマダニでも出ようものなら、ここでこの旅が終了してしまうと、探検隊は調査の断念を決断することに。



しかし、なぜだか、「邸址歩道」の案内の前には、新聞が入って、ポスト、インターホンがある。この先に人が住んでいるのか?謎が深まったが、先を急ぐこととなった。


本来、目指すのはこの「東善寺」、山号は「諏訪山」曹洞宗のお寺で、1633年(寛永10年)に開山された。1704年(宝永元年)江戸時代中期、小栗家の所領となるとともに、旗本小栗政信によって中興された。



入口には、草津街道、信州街道の標識があり、そこには、横須賀までの距離が書かれていた。また、横須賀市民の場合は拝観料が無料という看板もあって、かなり、横須賀との関係性が感じられます。


本堂では、家の方が大量の座布団をもって、行ったり来たりと忙しかったので、挨拶だけしたものの、拝観は諦めました。

受付の窓口には、かわいらしい狸の置物があって、その横にコーヒーがこぼれているのでビックリ、これは観光客のマナーの悪さかと、一瞬、コーヒー缶を立てようとしたら、狸の胸に書かれている題名は「ゴメン こぼしちゃった という食品サンプル」になっていました。これはユニークすぎて、ドッキリの技ありでした。


本堂の横には、昭和二十九年 横須賀市から送られた、小栗上野介の胸像があり、その隣には栗本鋤雲(くりもとじょうん)の胸像もある、この、栗本鋤雲は幕府の典医の家系の生まれで、母は鬼平こと長谷川宣以の姪っていうのには驚き。昌平坂学問所に入学し研鑽を積み、奥医師になるも、先輩の讒言で、箱館奉行所組頭に左遷。そこで、千島、樺太を探検するなどの功績から、幕府に呼び戻され、昌平坂学問所の頭取、その後、目付に登用され、以前から親交のあった小栗上野介に横須賀造船所の施工監督として任命され辣腕をふるったのち、外国奉行として、慶応3年(1867)パリ万博にも随行している。NHK大河ドラマ「晴天を衝け」では俳優の池内万作さんが演じており、武田真治さん演じる小栗上野介の怪演の横で豪胆ぶり(幕府にも言いたい放題)。しかし、明治維新後の新政府には仕えず、ジャーナリストになってその才で、渋沢栄一の一計にのる一幕が好感度Upでした。


この、胸像の左後方には、小栗上野介の立派な供養墓と並んで家臣のお墓があります。



ここを右手に上っていくと、本墓がひっそりとありました。ここには、首級が館林に送られ、その後、法輪寺の境内に葬られていたものを、小栗上野介の夫人を会津まで送り届けた中島三左衛門が権田に戻ったあと、一周忌に際して、奪取、ここに人目を避けて埋葬したとの説明があります。


こうして、東善寺を出発。ここは烏川の源流。橋から川を覗き見ると、釣り人が川につかって、何かを釣っている様子。このあたりは上州漁業協同組合が5/28にヤマメを200Kg放流しており、おそらく、入漁証を持った釣り客でしょう。


2018年4月8日に開校した高崎市立くらぶち英語村は、旧川浦小学校の校舎と校庭に建てられた総木造りの寄宿舎から成る山村留学施設で、小中学生を通年や、短期で受け入れています。


本町の「もぎたて完熟屋」を運営しているカネト水産の釣り堀の案内看板がありましたがCLOSEの表示に、どうも、夏季休暇中は15日と16日の2日間しかOPENしていなかったようです。


2021年 倉渕中学校ー前橋育英‐明治大学からドラフト2位でヤクルトスワローズに入団した丸山 和郁 外野手のお祝いの横断幕が、地元の企業の建屋のあちこちに掲げられていました。小さな村の熱狂が伝わります。こういったことは随所に見られて、小渕優子 衆議院議員のポスターが一般家庭の居間に貼られているのが遠目にみてもわかるほどに、食卓を家族が囲む一角が、衆議院議員のポスターっていうのも小さな集落ならではなんでしょうか。


なんと立派な 庚申塔ということで、写真を撮りました。倉渕は77か所、114基もの道祖神が祀られた宝庫だそうです。


高崎の奥座敷にある優雅な「はまゆう山荘」。ほんと、併設されたわらび平森林公園以外になにもないところにポツンと建っています。温泉は、めずらしい含鉄泉で、濃厚な茶褐色、国内屈指の成分量だそうです。日帰りで570円ということで、お昼ご飯のあとに入ってみたかったのですが、まだ、ここは旅路の半分にも至っていないので、諦めました。


ただ、ここからが大変。浅間隠山(標高1756.8m)の南肩を乗り越える位置にあるのが二度上峠(にどあげとうげ)で、そこまでの8.5Kmはひたすら険しい上り坂。もう、自転車なんか漕ぐこともできないので、ひたすら押して登っていきます。だけど、ありがたいのは、山の中なのか、標高が高くなってきたのか、明日が台風で雲模様の空のせいなのか、少し涼しく感じられました。ただし、とんでもない強敵に襲われることに・・・・


大量のアブが、吐く二酸化炭素なのか、来ている黒い服の色をターゲットによってきて、挙句の果てに、肩や背中を刺すので痛くてしかたがない。なぜだか、腫れるようなことはないので、刺されている間だけが痛いのですが、背中の場合は払いのけるのに一苦労と、ほうほうの体でした。


「幕府御用材搬出御会所跡」との立て札を発見。天保年間、幕府は川浦山から大量のケヤキを伐り出し、烏川に流して多野郡新町に送っており、ここに、その指揮監督するための陣屋=御会所があったということですが、見事に草木が茂っており、なにもわかりません。


13:40にやっと、二度上峠に到着、そこには「浅間高原 きたかるいざわ」、「浅間山」の文字を発見。ここが高崎市の西北の果て、そこは、長野原町との境で、眼前にあるのは浅間山とそのなだらかな丘陵で、様変わりの景色が広がっていました。


後ろを振り返ると、今、登ってきたところに「ようこそ、高崎へ」の案内があって、白衣観音の写真があって、高崎のシンボルといえば、この一択なんですね。これも、井上保三郎翁のおかげだとつくづく思います。


旅は、ここが中盤で、この先、北軽井沢で浅間大滝⇒軽井沢でアウトレットモール⇒碓氷峠でめがね橋と自転車旅を満喫して、20:30に帰宅となりました。


コメント

このブログの人気の投稿

2024年1月27日(土) 高崎最古の将軍塚古墳と慈眼寺周辺を巡る(会員研修)晴れ

2024年5月19日(日)天気:曇り 「石碑の路を巡る」の会員研修

高崎ぶらっと自転車旅「夕暮れの榛名湖」2024.5.4