高崎お宝発見「明治時代の街中の生活を支えた簡易上水道の水道栓」
ガイドの会員が5/13の市民公募ツアーで配布するための長野堰用水の資料をいただきに、長野堰事務所にいってみると、その駐車場に置いてあったのはなんと簡易上水道の水栓柱でした。 高崎藩時代において、「松平右京之亮高崎城主たりし当時には管理奉行ありて・・・汚物廃品を捨つることを厳禁せり故に・・小魚族棲息し居りて」と清らかだった長野堰も「廃藩置県の制度が布かれしより、田用水の管理も施廃され町民の汚物、汚水を流す悪風を生じ、用水路変じて下水路となり、飲用に適さざるに至れり」と高崎水道史(1925)にあります。そのため、明治19年6月(1886)現在の中心地(本町、田町といった15か町)において長野堰水利組合と協定を結び中心地に入る手前である飯塚村の新井堰より取水する簡易上水道を敷設(1888年竣工)しました。取水口には、粘土やれんがで造ったろ過器と沈定器を2個ずつ設け、笠石でふたをしました。通水管の主要部分は鉄管、ほかは陶管で、共同井戸が19か所ありました。杉材で囲まれた井戸から手押しポンプなどでくんでいたため、大雨などで水が濁り、ボウフラやミミズも出たそうです。給水戸数が1771戸で全戸数の40%程度に留まったので、本格的な上水道の求められるようになったということです。